戦国時代から江戸時代にかけ、飫肥藩には新刀の名刀工と言われる人たちが活躍しました。ここでは、代表的な刀工を紹介します。

田中国広

戦国大名伊東氏領の綾古屋(宮崎県綾町入野)に1531年(享禄4年)?に生まれました。1576年から1612年までの作刀が確認されおり、11口が重文分に指定されています。主家の伊東氏が島津氏に敗れ没落した1573~92年(天正年間)から諸国を巡り、作刀に精進しながら足利学校(栃木県)に入学して修験道や兵法の研究をしました。その後、豊臣秀吉の重臣石田三成に仕え、1573~92年(文禄3)には島津氏領都城の検地に従事しています。そして再び、飫肥に封ぜられた伊東祐兵に招かれ、三成の許しを得て再び伊東家に仕えました。1599年(慶長4)頃から京都一条堀川で作刀に励み、新刀界の第一人者と称され堀川国広と呼ばれました。国貞など多くの名工を育て、1614年(慶長19)死去。没年齢は一説には84歳であったとされています。受領名は信濃守と言います。

井上国貞

1590年(天正18)、井上国貞は、日向国木花(宮崎市)の西教寺に生まれました。寺を継ぐ立場であったものの刀鍛冶を志して、同郷の田中国広の門下に入ったのは20歳に満たない頃でした。
1623年(元和9)、国貞34歳の時、刀工名に和泉守を受領しました。当時としては若い年代の受領でした。
名声が天下に広まると、肥後国(熊本県)の細川家が300石で召し抱えたいと申し出、これに対し、飫肥3代藩主伊東祐久は「禄は100石しか出せないが、大坂に居住しても、ぜひ当藩に留まるように」と懇請しました。師の国広とともに伊東家の家臣として仕えていた国貞は、あっさり細川家の誘いを断りました。
1652年(承応元)63歳で病死しました。二代国貞を継いだ二男井上真改に対し「親国貞」と呼ばれています。

井上真改

1630年(寛永7)、和泉守井上国貞の二男として生まれました。9歳で父について鍛刀を学びましだ。1653年(承応2)24歳の若さで和泉守藤原国貞を襲名し、二代国貞と称されていましたが、熊沢蕃山の勧めで1672年(寛文12)頃、井上真改と改めました。
伊東家は真改の技量を高く評価して、150石に加増して召し抱えました。1661年(万治4)には朝廷から十六葉菊の紋章を許され、新刀第一の名工として、ますます名声が高くなりました。
1682年(天和3)に52歳で急逝しました。

 

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