飫肥藩の刀工たち

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戦国時代から江戸時代にかけ、飫肥藩には新刀の名刀工と言われる人たちが活躍しました。ここでは、代表的な刀工を紹介します。

田中国広

日向の刀工国昌の子として1531年(享禄4年)に当時伊東家が支配していた綾の古屋に生まれました。家中で鍛刀をしていましたが、1577年(天正5)、伊東氏が島津氏に追われ豊後(大分県)の大友宗麟を頼って豊後に落ち延びたとき時、当主義祐の孫である伊東マンショ(※)の世話をしていたと伝えられている。マンショの渡欧後は、修験者として諸国を巡り、足利学校に入学して修験道や兵法の研究をしながら刀の鍛錬にも精進した。その後、石田三成などに仕えていたが、伊東祐兵が飫肥に封ぜられると、再び伊東家に仕え、1599年(慶長4)京都一条堀川で作刀に励み、その名声から堀川国広と呼ばれ、新刀界の第一人者とされ、多くの名工を育てた。その弟子の一人に井上真改の父にあたる初代和泉守藤原国貞がいました。
1614年(慶長19)84歳で永眠しました。

井上国貞

1590年(天正18)、井上国貞は、日向国木花(宮崎市)の西教寺に生まれました。寺を継ぐ立場であったものの刀鍛冶を志して、同郷の田中国広の門下に入ったのは20歳に満たない頃でした。
1623年(元和9)、国貞34歳の時、刀工名に和泉守を受領しました。当時としては若い年代の受領でした。
名声が天下に広まると、肥後国(熊本県)の細川家が300石で召し抱えたいと申し出、これに対し、飫肥3代藩主伊東祐久は「禄は100石しか出せないが、大坂に居住しても、ぜひ当藩に留まるように」と懇請しました。師の国広とともに伊東家の家臣として仕えていた国貞は、あっさり細川家の誘いを断りました。
1652年(承応元)63歳で病死しました。二代国貞を継いだ二男井上真改に対し「親国貞」と呼ばれています。

井上真改

1630年(寛永7)、和泉守藤原国貞の二男として生まれました。9歳で父について鍛刀を学びましだ。1653年(承応2)24歳の若さで和泉守藤原国貞を襲名し、二代国貞と称されていましたが、熊沢蕃山の勧めで1672年(寛文12)頃、井上真改と改めました。
伊東家は真改の技量を高く評価して、150石に加増して召し抱えました。1661年(万治4)には朝廷から十六葉菊の紋章を許され、新刀第一の名工として、ますます名声が高くなりました。
1682年(天和3)に52歳で急逝しました。

※伊東マンショは、当主伊東義祐の娘・町の上の子で幼名を満千代といい、1569年、都於郡(西都市)に生まれました。ところが8歳の時、薩摩の島津軍の侵攻を受け、伊東義祐、祐兵父子とともに豊後に逃げ延びました。そこでマンショは洗礼を受けます。そして、1582年天正遣欧使節団の一員としてヨーロッパに派遣されます。

当時としては小藩である飫肥藩に、日本の刀工をリードする名工たちが活躍していたようです。
また、歴史の本にも掲載される伊東マンショと新刀界の第一人者の田中国広のかかわりなども、興味深い史実ではないかと思います。

刀剣類
飫肥城歴史資料館に展示してある刀剣類

刀剣
十六葉菊の紋が入った井上真改の刀剣の束