飫肥藩主伊東氏は藤原氏南家の家系で、鎌倉時代に曽我兄弟の仇討ちで有名な工藤祐経を祖とします。

祐経は、源頼朝より日向国をはじめとして全国各地に所領を与えられ、全国の所領には地頭等を配し、自らは伊豆国伊東の地に居住しました。その子である祐時は姓を伊東と改姓し、6代伊東祐持のとき、足利尊氏より日向国都於郡(ひゅうがのくに、とのこおり)に所領を与えられ、伊東から都於郡に移り住みました。

 伊東氏は代々都於郡城を居城にその勢力を拡大し、16代伊東三位入道義祐のとき、それまで島津氏の支配下にあった飫肥城を攻め取り48支城を各地に配し、日向国内に覇権を樹立しました。
しかし、元亀年(1572年)木崎原の戦いで島津義弘に敗れ、その後天正5年(1577年)伊東領に侵攻した島津氏に敗れて国を失い豊後国に落ちました。

 その後伊東氏が大名として復活するのは、豊臣秀吉に仕えた義祐の子・祐兵が、天正15年(1587年)の九州平定で功績をあげ、飫肥城を与えられてからです。
以降280年余、飫肥藩(五万一千石)を伊東氏14代で治めました。

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